1997年9月(美術と教育・1997あとがきから)


金山明さん田中敦子さんに会いに奈良に行ったときのことである。

金山さんが車で駅まで迎えに来てくれることになっていて私たちは近鉄特急の駅を下りて待っていた。事前に三菱のグレーの車です、とは聞いていたもののそれらしい車はない。まだ来ていていないのかなと思っていたところに、スポーツカーから白い開襟シャツ姿の紳士が下りてきた。金山さんだった。流線型で車高が低く、より速く走るために最新のテクノロジーがふんだんに使われてるグレーの三菱のスポーツカーからである。事情があり一時的に借りている車かなと思ったがそうではなかった。金山さんが七十歳になったとき、弟さんからもう歳なんだから車とか乗らないほうがいいと言われ、次の日に最もスピードの出そうなそのスポーツカーを買ったそうだ。乗せていただくと体がシートに沈み、斜めに寝そべった体勢になった。エンジンをかけると唸るようなアイドリングの音と共に機敏に走り出した。私と編集の坂口さんは驚きと緊張のあまり無言になってしまった。「安全運転しますから…。」と言ってくださった言葉は緊張感に追い打ちをかけた。スポーツカーはどんどんと山奥に入っていき飛鳥寺、高松塚古墳を過ぎこれ以上民家はなく道も山道になってしまうというあたりまでいった所にご自宅があった。自然に近づきすぎるとその存在の強さに圧倒され不安になる時があるがそれに近い環境である。車幅めいっぱいの道からさらに急な坂を登った所にご自宅はあり、その道も脱輪しようものなら五体満足ではいられない感じである。神業のようなハンドリングでそこを登るとき「何千回もしてますから…。」と金山さんはやさしく言ってくれたが私は「何千回もの恐怖…。」を同時に感じた。エンジン音が止まりほっとすると、家から田中さんが出てきて暖かく丁寧に私たちを迎えてくれた。新作が所狭しと並ぶアトリエでインタビューを終えて帰ろうとするとき田中さんが「中村さんいい作品創ってください。問題作をね…。」と声をかけてくれた。どきっとした。歴史に声をかけられたような、すべて見抜かれているような感じがした。金山さん田中さんの生き方がとても「美術」的であり、そのご夫妻の車に同乗したことは「教育」的な経験であった。
 
このインタビュー集の制作動機は、89年から3年間のソウル留学時代の体験がベースになっている。黒田清輝が印象主義をフランスから学び、その亜流印象主義を東京芸大で学んだ韓国の留学生が自国に持ち帰ったものが韓国の「美術」の契機になっている。その後韓国の美術教育は日帝時代を経て、現代に至るまで制度的に色濃く日本的になっていく。私の体験からいうと大学に入学するまでが日本的で卒業がアメリカ的な感じがした。入るのも難しく出るのもしっかり勉強しなくては卒業できない。美大の前には美術予備校が建ち並び窓には石膏デッサンが飾られている。テキストには、日本の「芸大美大受験シリーズ」のノウハウ本がフルコピーされ使われていたりする。複写の段階で絵の構図や色が変わったりしていてもそのままである。ソウルの作家と作品の話をしても妙にお互いが納得してしまう。形体の捉え方などそっくりである。なぜ、国の環境も異なるのに同じ考え方をする作家がにこんなに多いのだろう?同じ「美術」という漢字を共有している(読みは韓国ではミースルである)とはいえなぜ同じ「美術」をしているのだろうか? 私が受けてきた「教育」はいったいなんだったのであろうか?「美術」を「教育」するとはどういうことなのだろうか? どんどんと疑問は膨らむばかりでありソウルの街を歩いていてもその疑問だらけで街の姿が見えはじめ作品制作において手作業がぴたっと止まった。
 このことを私の中でなんらかの形で解決しようとしたことがこのインタビュー集制作の動機の一つである。一九九四年に貸画廊制度についてインタビューしそれをまとめた際、さらに今回のテーマに対する道義付けが深まったともいえる。また、フィールドワーク的にインタビューを進めていたとき、上野の森美術館の窪田氏から「眠れる森の美術」展の話があり展覧会のコンセプトに共感できたことはこの作業が形になる直接的な契機になっている。

作業は三月に制作ボランティア(後にネルビーズと命名される)を募集することから始まり、その後、私が香港に渡ったためスタッフとの海を越えてのEメールのやりとりで行われた。初めは慣れなかったものの、インターネット時代の到来を体感する作業の進行であった。メールで会話をしていると細かいことまで言い合えるが、いざ実際に会うとどうも会話がしっくりこないという不思議な感覚も覚えた。
 
インタビュー対象者は「眠れる森の美術」展のスタッフと共に人選をした。四十数名の方に企画書を送り申し込み結果的に三四人がインタビューを受けてくださった。そのうち三二人のインタビューをここに掲載することができた。インタビューを終えて感じることは、この作業自体が私にとって刺激的な学校のようなものであったということで、特別集中個人講座を受けたような贅沢な体験であった。「あいたい人に会い行く」ことを実践しただけなのに、膨大な情報が私のスキーマを構築していくさまが実感できた。一人のインタビューを終え次の人をインタビューしている時には前の人の言葉が浮かび、そのうち誰が言ったかは問題ではなくなり内容そのものが私のなかで思考として動いていた。その重層化した思考がまた質問するという、思考を組み立てる作業自体、「考える」ということ自体が、自分の中でかってに一人立ちしていった感が強い。私が考えているのではなくある他者と複雑に共有した思考自体が「考えている」ということである。それはまた視えにくい制度を個人を通し感じる作業でもあった。


どうも私のネイチャーはこれらの矛盾と末永く関わりそうである。 

1997年9月24日 中村政人

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