1999年5月(美術手帳誌1999年5月号に掲載)


「何浪もして石膏デッサンをしている人は、それだけで食べていけるようでした」とある美大生は予備校の思い出を語ってくれた。職人的技術と張りつめた精神性が必要とされる石膏デッサンは合格レベルまでいくとそれだけで手に職を得たような気分になる。「確かに、それで食べている人はいますよ。予備校の講師です」とミラノ在住のアーティスト廣瀬智央はいう。また受験制度について「アーティストになるには必要のないこと」海外からみると「受験というシステムでしか成立しえない日本独特の世界であり、そのことを知ると不思議な感じがする」と語ってくれた。彼は三浪で多摩美のデザイン科に入学、卒業後留学し、アルテポーヴェラのルチアーノ・ファブロのクラスで修士を取っている。イタリアの美大に石膏像はあるかと聞いたところ、「大理石でできているものはある」と答えた。そうオリジナルは大理石だったのだ。

『BT/美術手帖』誌の広告ページには、歴代の「受験絵画」参考作品が掲載されている。創刊号から現在のまで約五十年分広告ページを観察してみた。私自身の体験を基準としているため、油絵科を前提として話を進めることとする。

創刊号(一九四八年)の画材店の広告にはすでに石膏という活字が見える。岡倉天心が馬に乗って芸大に来ていた頃から石膏デッサンはあるのだから当たり前だ。時代が進むにつれ画材店の世界堂のモナリザがあっと驚いている広告が美術手帖の顔のようになる。また予備校と美大と公募展の広告が本文のページの印象より強くなる。欧米の場合、画廊や美術館の広告が多いのだが、日本の場合、産業として成立している業種しか広告を出せない。一九七四年の四月号、新宿美術学院(通称新美)の広告には、川俣正の石膏デッサンが掲載されている。しっかりと空間を確認するように丁寧に描いていて、アカデミックの王道をいくような非の打ち所のないデッサンである。ちなみに一九七五年の九月号と一九七五年の一月号には油彩が掲載されている。この油彩も浪人生とは思えない大胆な構成力を感じさせる絵である。一九七五年の五月号には、保科豊巳の人物画が掲載されている。このころを前後に受験の課題も組み石膏など静物モティーフも増え少し多様化してきている。新美の広告は誌上ギャラリーシリーズとして、名前入りで掲載されるため、学生としては、そこに載ることはステイタスでもあった。川俣・保科は芸大合格後、関口敦仁、戸川馨などと同時期に講師をしており新美の黄金時代を築いている。当時「新美ズム」と私が勝手にいっていた現象があった。特徴はそれまでの木炭一本で描いていた黒く重い感じのものから、白黒の対比がシャープな「白いデッサン」である。その代表的な石膏デッサンは一九八三年三月号に掲載されている伊藤哲のデッサンで一見白の部分が何も描いていなく飛んでいるように見える。「いやじつは、9Hの鉛筆とかで木炭紙の目をつぶすようなハイトーンで描き込んでいるですよ」と伊藤は種明かしをしてくれた。彼は十五才から二浪で合格するまで計五年間予備校に通っていた。芸大大学院版画科を修了後、難関を突破し大手代理店に入った彼は突然退社、毎日絵を描くことしかしない生活を始めた。川俣正・保科豊巳は二人とも予備校時代からスターで、今は二人とも芸大の教授になっている。何万人いたかわからない受験生から、芸大生、予備校講師、作家、芸大教授と受験制度の下から頂点まで昇り詰めている。芸大に新しくできた先端芸術表現科で何をしてくれるか期待をしたい。

一九八一年の七月号の同じく新美の広告に登場する林えり子や同年十一月号に掲載されている後藤トキ子のデッサンは受験絵画のピークともいえる。短時間で効率よくポイントを押さえ強く描く「きわ攻め」の方法論の極みである。モノの実体は描かなくそのアウトライン、いわゆる「きわ」をハッチングで攻めて描く。ハッチングとは斜めの線を均一に引き詰めグレーのトーンを描くことで、腱鞘炎になりそうなスピードでハッチングしている姿は、何かにとりつかれたようである。とにかくこの「きわ攻め」が受験界を一世風靡してしまったため、この時期受験を経験している人は、絵画を描こうとすると手癖として体が覚えてしまっているため輪郭だけで絵を創りがちである。何も知らない評論家の人は、フォーマリズムの影響を受けとか言い出すであろうが、私から見ると単なる「きわ攻め」の後遺症だったりする作品はよく見かける。

「なにを信じて何浪もして芸大に入りたいのか?その強い気持ちがいったいどこから出てくるのか?」アート・アドミニストレーターをしている関ひろ子さんは不思議そうに言っていた。アートを信じて、芸大を信じて受験をするのだが、受験をやめるまではなぜかそのトリックに気がつかない。「高校から予備校に行くと、なんか同志がいっぱいいると思った」多摩美のプロダクトに昨年、現役で合格した長谷麻子さんは高校がいやで予備校に行くのがとても楽しかったと語る。芸大を計七回受験した佐藤博二さんは「芸大の一次試験を受かった時は、なんか救われた気がした」と思い出す。彼は、多摩美大、東京造形大、武蔵野美大に合格しており、そのうち多摩美大は中退、武蔵野美大は卒業している。平成元年に念願の東京芸大の大学院に二十九才で合格した。大学院の試験では、家で描いている作品のファイルが評価されたというが、教授には「もう受験はやめろ」とも言われたそうだ。「受験とは実力と集中力が必要、実力とはしっかり描写できる力、運やタイミングだけでは入れない」説得力がある言葉だ。長い浪人時代、新聞配達をしながら受験をしていた。「でも東京は、展覧会が多く本物が見られたのでその嬉しさがあるとまたがんばれた」現在は予備校で油絵科の主任講師をしている。「芸大は変な人がいっぱい出てきてほしい」と芸大に対する想いは今でも強い。一九九一年の一月号の立川美術学院の広告に掲載されている石膏像のようなこの人物画は受験絵画に望まれているものが現れている。「他の誰よりも強い意志でしっかり描写する」きわ攻めに加え必要以上の描き込みがされる。柔らかで繊細な優しい気持ちで絵を描くことなど受験ではとうてい評価の対象にすらならない。自分を強く見せることしか頭にない作家が増える理由はここにある。病気にならないためには割り切って自分を捨てて描くしか道はない。

私は浪人するとき二十三区内の予備校になぜか勇気がなく行けず、立川現代美術研究所(現・立川美術学院、通称立美)の現代美術という響きにあこがれて行った。立美の同期では岩井成昭、公木の木タクヤ、先輩では、柳幸典、後輩では、袴田京太郎、廣瀬智央、小沢剛やスタジオ食堂の中山ダイスケ等がいる。柳さん以外皆、その後私も含め立美で講師として働いていた。講師仲間では、村上隆や、池宮中夫(コンテンポラリーダンス界で活躍中)、など一癖ある連中がいた。大竹伸朗は基礎科の講師でいたそうだがノイズミュージックを大音量で聴かせ絵を描かせたりしてすぐ首になったそうである。立美には当時芸大特設科という多浪生のたまり場のようなコースがあり片小田栄二という先生がとてもユニークな授業をしていた。例えば、生徒に街を徘徊させゴミ捨て場とかからモティーフを拾い、自分で組ませ描かせたりした。その影響で今でも街を見るときには何かおもしろいモノはないかと物色してしまう。片小田先生は酒を飲んでは今年こそ安井賞を取るぞと口癖のように言っていた。飲んで家まで生徒が押しかけ、皆寝込んでしまうとひとり起きて絵を描き出す姿は今でも脳裏に焼き付いている。数年前悔しいことに他界した。私にとって先生と呼べる数少ない人だった。

立美から前述のおもしろい作家が多数でてきていていることは予備校での深い師弟関係と、立川という環境の力に依存するところが多いからであろう、「新美ズム」に対し「立美ズム」と勝手に命名したい。同時期新美では川俣・保科さんが教えている時の生徒は、芸大では榎倉教室を目指しフォーマルな仕事をする人が多い。ここで注意したい点は、芸大に入ってから資質が目覚めているわけではなく、予備校時代の教育的バランスが大きく心と体に影響を与えているということである。運命共同体のように生徒と先生ががっぷり四つになり指導をする。そこまでしないと合格しない。四十倍五十倍の難関を通るための絵を描く。合格した後も後遺症はそうは簡単に抜けない。合格できなかった大多数の人はアートへのあこがれを断念せざるをえない状況に追い込まれる。

『美術手帖』の広告ページにみる美術教育の現状を判断すると、結論として、「日本の美術教育は何も変化していない」といえる。戦後五十年という激動の時代の影響は全く受けていない。『美術手帖』の本文で激論してきた美術批評や、時代をリードしてきた前衛的表現活動は、美術教育の現場には何も影響を与えることができなかったのである。しかも韓国、台湾を始めアジア諸国に同じような日本的美術教育「受験絵画」の影響を与えたことには責任を感じていない。韓国人アーティスト申明銀は芸術高校受験のため中学から石膏デッサンを描きだした。「小さい頃から画家になりたかったんです。高校の授業で石膏デッサンをして、その後予備校でまた石膏デッサンをしました。家に帰るのは毎日夜十時過ぎでした。この受験制度がある国で生まれて悔しいです」東京に十四年在住のイギリス人アーティスト、ピーター・ベラーズは、受験制度について「近代以前の状況だ、現代の美術ではない。同じ人が描いているみたいだ」とあきれた表情で批判する。「自分のベストの作品をファイルにして提出させたりしたらどうだろう」と入試のアイディアをいうが、すぐさまファイルの制作を予備校で行うことは目に見えている。

新美の油絵科の今年の募集要項のパンフレットの参考作品のデッサンを見てほしい。もやもやとした空間には両腕のない石膏象が悶えように描かれている。日本の美術教育のゆがみが悲しいほど如実に現れている。この作品を絵画と呼ばなくてはならない受験制度は大学側の改革により変えられる。芸大はいったいいつまで石膏像を描かせるつもりなのか?

大学審議会が提示する、二十一世紀の大学像は「競争的環境の中で個性が輝く大学」だそうだ。まだまだ孫子の代まで受験戦争は続きそうである。答申の中で改革の具体的理念は、
一、課題探求能力の育成を目指した教育研究の質の向上。
二、教育研究システムの柔構造化による大学の自立性の確保。
三、責任ある意思決定と実行を目指した組織運営体制の整備。
四、多元的な評価システムの確立。

この四つの理念は「競争的環境の中で個性が輝く予備校」ではすでに実現されている。

一、「課題探求能力」つまり「主体的に変化に対し、自ら将来の課題を探求しその課題に対して幅広い視野から柔軟かつ総合的判断を下すことのできる能力」がないと大学は合格できない。

二、大学の変化や生徒数の減少に素早く対応し経営戦略を打ち出さないと社会的に予備校は生き残れない。

三、予備校講師は一年契約で成績が悪いと再契約ができなかったりと予備校の意志決定機関は現実に敏感に反応する。

四、曖昧な作品評では生徒は何もわからない。具体的な評価を毎日くだされる予備校では既に多元的な評価システムは確立されている。

このことは、大学の改革理念が目指す方向は矛盾したことに予備校的大学像ということになってしまう。政治が変わる程度でこの問題は急激には変化しないほど方向を見失っている。よって既存の大学に期待できるほど私に時間は残されてはいない。現時点の段階で考える新しい美術・教育を思考し体験できる学校的機関の私なりのプランを具体的を示したい。

一、東京都心部に所在する。
二、独立採算できる非営利団体が母体となる。
三、アーティスト主導のプロジェクト型作品を実現することを運営の主とする。
四、プロジェクトチームのリーダーが講師となり、参加したスタッフが学生となる。
五、一つの作品が完成しプロジェクトが終了するとそのプロジェクトチームは講師も含め解散し学生は卒業する。
六、プロジェクトは、数日のものから数年間要するものまで内容に応じた実地期間をとる。
七、プロジェクトに参加する希望者が多い場合は、役割に応じてチームリーダーが選考する。

細かい点は省くが、現実的に予算を生み出せれば実現可能なプランである。学校というよりは新しいアートセンターに近い機関といえるかもしれない。commandNはその準備段階として行っていて、このプランが架空のものではないことを実証している。 

東京の予備校の年間授業料は約七十万円(入学金を含む)。東京芸大の油絵科の場合、七十五万三千八百円(入学金を含む)。多摩美術大学の油絵科は年間二百三万九千五百円(入学金を含む)支払わなくてはならない。学部を卒業するのに、東京芸大の場合、約二百二十万。多摩美の場合約七百万円(!)かかる。ドイツの美術学校は学費がかからない。受験予備校では海外留学科を新設したほうがよさそうである。

(『BT/美術手帖』誌一九九九年五月号に発表)
中村政人

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