雑誌『美術手帖』
vol.55 no.838
2003年8月号
(美術出版社)

現代アーティスト10組の仕事場に見る アトリエの建築的冒険

p42
東京の古い民家をセルフビルドで現在進行形のリノベーション

P96 - 99
カタリストとしてのリノベーション
- 交差する建築と美術
五十嵐太郎=文

 P100 - 104
ネオ・メタボリズム
- 「湯島もみじ」に見るポスト・リノベーションの展開

暮沢剛巳

 (前略)
 孤独なアトリエから開かれたアトリエへ
 (中略)
 美術家の身体経験が育んだ「湯島もみじ」
 (中略)

 成長し続ける有機的空間としてのアトリエ像

 さて、すでにお気づきの読者もいるだろうが、「アフォーダンス」「オルタナティブスペース」「ワーク・イン・プログレス」といった今までの議論で言及してきた用語は、すべて二十一世紀型の新しいアトリエ像を示すキーワードとして「湯島もみじ」から抽出したものである。確かに情報環境の的確な理解、空間の多目的性、空間の成立形態の作品化、どれも重要な要素であるのは疑いない。にもかかわらず、これらのキーワードから受ける印象が揃って帯に短し襷に長しなのを免れないのは、結局のところそれらの語が有しているはずの「既存の空間の再構築」という意味合いが今ひとつインパクトを欠いているからであろう。リノベーションがいかに的確な概念なのか、つくづく実感させられる。

 灯台下暗し? 糸口は意外に手近なところにあるものだ。「湯島もみじ」のホームページにエントリーしてみると、そのなかの一セクションに「都市における新しい自給自足、新陳代謝......名付けてそれは『ネオ・メタボリズム?』」というフレーズが掲載されている。いうまでもなく、メタボリズムとは「建築や都市は閉じられた機械であってはならず、新陳代謝(メタボリズム)を通じて成長する有機体であらねばならない」という主張の下に展開され、国際的にも大きな影響力を持った建築・デザイン運動であり、その名は「ネオ・ダダ」や「反芸術」と同様に、築かれた一時代と特権的に結びついている。だが八束はじめが指摘するように、自主流通やセルフビルドを目指して構想された石山修武の「コルゲート・パイプ」然り、カプセル型デザインの再帰を試みた伊東豊雄の「シルバーハット」然りで、メタボリズムの理念は必ずしも1960年代の時代精神のなかだけにとざされているわけではなく、「その問題の所在の多様性ゆえに、同時代のみならず、それより前、そして後ろの流れと直接、間接につながっている」のである。「湯島もみじ」が提起した空間の問題に、ここからの継起を見ることはけっして無駄ではないだろう。「ネオ」という接頭辞を冠することによって、一端その歴史的な意義や背景を忘却して、たんにデザインの問題だけに限定することなく、アトリエのあり方を考えるために「新陳代謝」本来の意味へと立ち返ってみることは大いに有益なのではないだろうか...。

 本来アトリエとは、けっして完成されることなく絶えず更新されていく空間であり、それは「聖域」であろうが寄り合い所帯であろうが変わりない。そしてその本質は、空間の成立に着目した「ワーク・イン・プログレス」以上に空間そのものを有機体とみなした「メタボリズム」という視点から迫るべきもののように思われる。二十一世紀のアトリエは、空間=作家=作品の有機的連関のうちにあるのだろう。ささやかだが画期的な「湯島もみじ」の冒険からは、その連関のダイナミズムが窺えたような気がした。

くれさわ たけみ[美術評論家]

(上記雑誌P104より引用)