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▽藤さんにとってアートとは?
▼いろんな面があるからひとことで答えるのは難しいですね。一つの面としてアートの鑑賞者の立場としてはかなり興味があって面白いもの。刺激を与えてくれる新鮮な出来事でもあるよね。でも、それはつくる立場からの視点じゃない。
作品をつくっているという立場の僕自身にとって、アートをつくろうという意識は希薄なんだけれども、結果的に僕がつくったものが、アートと呼ばれて社会の中に簡単に位置づけられてしまう。そういう不可解なものを社会の中で位置づける呼び名として成立してますよね。特殊な職業の名称としてもね。それはある意味では危険な事かも知れないけれども、実はとても有り難く感じてるんですよ。本当はアートとか関係ない商売の世界で安定した収入の仕事をしてる方が幸せだと思うけれども、そういう世界にいてもきっと何か理解不能な行動をやっちゃうと思うんですよ、精神衛生のためにね。家の中を一トンのお米で埋め尽くしたり人形を山ほど並べていたり、うーうー声を出して唸っていたり。もし現代美術っていう枠組みで呼ばれなかったら単なる「変なオジサン」でしょ。必死になっておにぎりの蛙を並べているただの変なオジサン。近所の人からも親戚からも変人扱いされて、すごく寂しい人みたいに思われたりしてね。
▽それでも何か勝手にやってそうですけど。
▼それが実は重要なんじゃないかって思ってますね。常識も認識も社会も常に変化し続けるものだって感じているから、現在の常識が将来の常識であるとは思えない。逆に現在認識されていない取るに足りない意識でも概念でも、将来生活に欠かすことの出来ない重要なものである可能性もあるわけですよね。たとえば現在の社会常識では弱者であったりマイノリティであったりくだらないとされているものだったり、力を持ち得ないものであったり経済効果優先で動いている社会の中で排除されている事柄とかまで、すべて表現者の注意と意識によって表現され、アートと呼ばれることで位置づけられ、社会的認識度を高めて行くことは現実的に可能ですもんね。そういう意味で僕自身にとってアートとは何かって定義づけを試みるならば、「現在の社会常識では認識されていない事柄を他者に意識させ認識させて行くプロセス」って感じですか。ちょっとかたいですかね。まあ、そういうことも含めて現代社会の中でまさに学習している過程に居続けているんですけどね。やっぱ、ちょっとかたいね。まあしゃーないなー。
えっ? もう終わり?
(一九九七年八月一日 藤氏アトリエにて)
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