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▽なぜ?
▼全部ヤシの木でつくるじゃない。だからだんだん古くなって傾いちゃうんだよ。初めの頃それが気になって、偉そうにさ、協力隊員ぶって、斜めに柱を入れればいいんだって教えようとしたのね。でもそれって浅はかなのね。ヤシの木だから三年で腐っちゃうのよ。古くなると住みにくいし、虫もわくし、湿気も増える。やっぱりニューギニアでは家っていうのは、三年ぐらいで傾いて潰れるのがふさわしいみたい。そこで注意してみてみると、倒れかけた家の横にはちゃんと新しいつくりかけの家があるのね。その時初めて気づいたんですよ。ニューギニア人は怠け者で何もしないとばかり思っていたのに、実は彼らはちゃんと働いていたという事実。つまりみんな自分で三年に一軒ずつ家をつくっていることになるんです。自分の家をね。しかもそれだけじゃなくて、交通手段として重要な丸太彫りのカヌーも五年に一回ずつつくってる。それ以外にも祭りの太鼓だとか笛だとか楯とか槍とか祭祀の道具だとか日用品とか、全部数年ごとにつくってるってことになる。とても削れそうにない空き缶からつくったような斧とか石斧とかでね。だって自分でつくらないとどこに売っているわけでもないしね。業者もいないし、お金もないしね。結局生活空間すべてつくっているわけ。人生全ての時間を使ってね。あと一つ大事なエピソードがこびりついてるんだけど話してもいいですか?
▽はい、どうぞ。
▼ニューギニアで最初に一年生の彫刻の授業を受け持つことになった時のこと。一ヶ月間一課題で、なんでもいいから自分の好きなものを等身大の立体でつくりましょうってことになったの。僕らの感覚だと、まずエスキースをさせるじゃない。その感覚でつくるものをまず描いてきなさいってスケッチブックを渡したんだけど、次の日に誰も描いてない。一週間経っても、誰も描いてこない。そのうち授業にだれもこなくなって、理由を学生に聞いたらみんなマラリアだっていうんですよ。遂にやさしい僕も怒って、三週間目に学生をみんな集めて、描いたもの見せろって言ったら、グチュグチュとしたのはあるんだけどなんにも描いてない、誰一人としてね。それで、なぜつくりたいものが出てこないのか話し合うことにした。するとどうやらつくりたいものはそれぞれ持っているみたいなのね。でもそれをドローイングにできない。下手でもなんでもいいってたのんでもやっぱり鉛筆は動かない。それであきらめて、あと一週間、もう何でもいいからとにかくつくれっていったら。もうすごいんですよ。みんなイメージできていてつくり始めたら止まらないって感じで、こんな(手振り)等身大の弓矢引いている人とかね、大胆な超大型の鳥とかね! みんなすごいのをつくっているの(興奮状態)。みんな等身大の立体感覚で明確なイメージがすでにできあがっていたんだよね。
その時はじめて気づいたのね! 要するに、絵にするっていう作業は記号化であって、彼らはそういうことはやったことないってことを。記号自体を見たことがない。雑誌もテレビも印刷物もマンガも知らない。たとえば、鳥はこうやってビューと飛んでいる(手振り)体験のものであって、羽が二枚あって嘴があってっていう(絵を描く)、こんなもんじゃないわけよ。人間ていうのは、こうあって(体でアクション)、匂いがして、そこにいるもんだけど。平面にするってことは(絵を描く)、つまり記号の世界でしょ。これは美術の教育と深く関わることだと思うんだけど、僕は生まれた時からメディアを見て育ってて、絵本でもそうだしテレビもそうだし教科書もそうだしね。たとえば虹は七色の空に架かる橋だとまず知ってしまう。本当の虹を見ると一生懸命七色数えようとして七色あると安心する。ほらやっぱり虹は七色だって。でも、実際虹なんて空中に突然出現する、わけのわからないこんな(手振り)もんなんだよきっと。僕らが持っている鳥とかキリンとかブタとかに対するイメージってさ、完全に記号でしかなくて、体験で理解してない。ブタは鼻が二つこうあって(絵を描く)、尻尾が渦巻いて…。動物園や観光旅行は記号を再認識する場所でしかなかったりして。本当はそんなんじゃない。ブタっていうのはこうゆうものなんだ(全身での身振り)、こうゆうもんなんだ!っていう!(全身での激しい身振り)こう!こう!っね。
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