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▽ところでパプアニューギニアに行くきっかけは?

▼僕自身は大学院を修了のあたりで自分が美術を漠然とやっているってことがすごくイヤだった。だから美術っていうものを「はにわ」に、自分自身を「ゴジラ」にたとえて、「ゴジラ」と「はにわ」の離婚、結婚問題研究みたいなことをやってたんです。それで「はにわ」を最終的に京芸の池に沈めて卒業した。にもかかわらず卒業してからも美術の展覧会の甘い誘惑があるんですよ。はにわに追いかけられているって感じですか?(笑)誘われるがままにやりつつも、なんかそういうのがすごく自分自身イヤだったのね。別れたいけど別れきれなくてズルズルって状態(笑)。それでとにかく遠くに行かなきゃいけないと思って。遠くといっても、地理的な遠さよりも時間軸の遠さとか社会的な距離感の遠さみたいな感じです。本当は江戸時代末期から明治時代初期に行きたかったんですよ。ちょうど様々な価値観が激変しているような時代にね。そんな時たまたま雑誌の広告を見つけちゃったんですよ。真っ黒い女の子がすごくいい笑顔でこっち見ていて「途上国に二年間!」ってやつをね。

▽青年海外協力隊ですね。

▼それがとても遠くの世界っていうイメージに満ち溢れていて。その時瞬間的に開発途上国に行くことで時間軸を逆行できるんじゃないかって思いついたんですよ。それで応募した。日本にいてもたとえば明治時代の状態を体験することはできないけれども、国を越えることでいろんな時代の現場を体験できるんじゃないかって思ってね。

▽パプアニューギニアでは何の先生をしたのですか?

▼美術の先生。向こうの国立芸術学校の。僕がいった時、国が独立してちょうど一〇年でした。

▽一〇年しか経ってないんですか?

▼パプアニューギニアっていうのは、一九三〇年代になって初めて外国人が入ったんだって。全然最近のことなんです。

▽どこの国ですか?

▼イギリスかな? オーストラリアかな? つまり飛行機じゃないと行けないエリアだったのね。今のパプアニューギニアのエリアってそれ以前は全く無人のところだろうと思われていたんです。地形的に誰もそこに足を踏み入れることができなかった。三千m〜四千m級の険しい山があって、海岸部は沼地で移動できなくて。飛行機の冒険が盛んに行われるようになって初めてそのエリアに原住民がウジャウジャ住んでいることが発見された。そして宣教師が入って、いきなり太平洋戦争がはじまって、日本軍も占拠して、ドイツ軍も占拠して…とグチャグチャしてくるんだけど、原住民はほとんど現地の生活を続けているみたい。一九七五年に今のパプアニューギニアとして独立したんだけど、未だに交通の不便な奥地の村ではそのまま残っているんですよ、昔のままの精霊との生活が。

 

 

 
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