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椿 昇 Tsubaki Noboru アーティストとせんせい
1953年京都市生まれ 京都市立芸術大学西洋画専攻科修了


▼結構、僕おじさんなんですよ(笑)今若い人達多いんですけど、僕は結構おじさんなんです。一九五三年生まれなんで、ちょうどワトソン・クリックがDNAの模型を発見して、日本でテレビ放送が始まったときで、第ニ次大戦がやっと落ち着いて朝鮮戦争も終わってこれから何かの時代がつくられていくんじゃないか、みたいな境目の時に生まれて、いろんな僕のものの考え方がフリンジというか、きちんとしたものが嫌いで、不定型なものが好きで権力というか出来上がったものが嫌いで。生まれつきそういう中間領域が好きになってしまったという、生まれた環境とか育った環境とか、それらの影響というのは非常に強いと思うんです。生まれたのは、京都だったんですけど僕、非常に病弱だったんで、ほとんど寝ていたというか…。

▽何才くらいまでですか?

▼幼稚園はほとんど行けてないし、小学校の時も風がチョット吹いたら呼吸困難で学校行けないというような。非常にやばい状態で。育った家が日本家屋のボロボロの古い家で、僕、病弱なわりに結構やんちゃだったんで、しょっちゅう親父に抱えられて納屋に放られてたんですよ。すごく、クモの巣とかはえてるところとか、すごく奥の方とかそういうところとか座敷きの奥にある暗い隙間とか、そういうものに対する恐怖感とか、まあ家も昔の家ですから、冬は枕元の洗面器に氷が張りますしね。零下になるんですよ。家の中でも屋外状態、お月さんが隙間から見えるんですよ(笑)。
▽お父さんは何をなさってたんですか?

▼うちはねえ、全員鉄道員だったんです、ぽっぽや。明治から三代ずっと鉄道員の家庭。家に、天皇皇后の写真があったりとかね、変なレトロな世界ですよね。そんな環境の中で、一番大きかったのは、遊び道具が何もないということですね。貧しいのもあるし、おもちゃを買って貰えないから、自作しなくちゃしょうがないんですよ。こういう感じで、工具類でも潜水艦でもなんでもつくって、つくったものを川に持って行って浮かべて、浮かんだり沈んだりさせてメカニカルな部分も全部やるという。想像力しか遊び道具がないんですね。あとは地面の上に飛行機を描き椅子を置くとか、イメージだけで今のフライトシュミレーションレベルのことはできてたんですよね。目つぶってね。周りから見たら危ない奴かも分からないけど。ブーンとか、ゴーとか、バリバリとか言ってるだけで十分。ちゃぶ台ひっくり返して、そこにチョークでぎっしり計器板描いて、毎日絵を描き替えて…。

 

 

 
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